特命宣伝部長の高田鳥場です。
エステーには関係なく個人ごとを書いてしまいます。
あ、いつもそうなのですが。
私が不祥事企業の社員でNHKスペシャルの被写体としてドキュメンタリーをとられたとき。ディレクターは決してやらせをしなかった。
明日なにをされますかと聞かれて、スケジュールをお教えすることはあっても自分の言動を変えることはなかった。こう言ってくれなんて依頼も、もちろん一切なかった。
カメラが生活のそこにあるだけで、本当は現実と違うなにかが起きている。しかし、それはドキュメンタリーの宿命。演出ではない。
ある悲しい出来事があった時、カメラから離れて放心していたら、ディレクターから声をかけられた。
お気持ちわかります。遠目から今のあなたをカメラにおさめてもいいですか?
いいですよ。でも、そっとしてください、今は。
そう答えて取材協力した。お互いの信頼関係のもとで、取材が成り立つと思った。
台本なんかない。
最初は何人もの人を撮影しながら、それから被写体とそこにあるテーマも選ばれていった。いや、テーマを探し続けていた制作者を被写体の私は見続けた。
40分テープで、おそらく200本は撮影されたのではないだろうか。
ディレクターが何かを読んでいる。
何してるんですかと聞いてみると、あなたの発言を今、振り返ってみています、と彼は答えた。
膨大な私の発言を繰り返し繰り返し眺めていた。そこに流れる何かをつかむためにだろう。
私はどんな発言をしてきたのか質問したが、決して教えてくれなかった。
教えられません。もし、私がここで過去の発言を伝えたら、あなたの行動が変わってしまうかもしれないから。
だって私の発言ですよ?
でも、だめなんです。
私以上に私を知っている彼は、笑いながらも明確に答えた。
私は、ドキュメンタリーディレクターとしての彼の凄みを知った。
丁寧に丁寧に事実をつなぎ、一時間のドキュメンタリーができあがったのだろう。実直で事実をまげない、しかしちゃんとそこに流れる意味あいを伝えている素晴らしい作品だった。
しかし、私は最初にそれを見たとき、その取材に全くやらせはなかったけれど、受け止められないなにかを感じた。
被写体になる覚悟は相当なものだ。心の化粧を全て剥ぎ取られ生身の自分を世間にさらされる。その心の傷は相当なものだ。ドキュメンタリーにされるとはそういうことなのだろうと自分に言い聞かせた。
カメラと編集と意味合いの発見がないとドキュメンタリーは作れないと思った。事実を報道するものとは違う。しかし演出をするしないの世界ではないと思った。
ドキュメンタリーは、いわばタイムマシーンに乗って過去と未来をえぐりとり、皆にそれを彼の視点で伝えるもののような気がする。
そこにいる人に話しかけ、話を聞く。そこまでは許されるような気がする。
でも、そこにいる人の言動を変えてしまうと時代が変わってしまう。故意に変えたならば、ドラえもんの世界では、未来警察官に逮捕される。
歴史を変えてはいけない。被写体になる人を傷つけてもいけない。
ドキュメンタリーという素晴らしい文化を、壊してはいけないよなあ。
なんて、ずっと最近、こんなことばかり考えています。
本日、真面目な鳥。
高田鳥場